「また来てね」、光己さんからそう言われてから1か月、私は未だに勝己くんに会いに行くことが出来ていない。床に平積みにされた本を手に取り、ベッドに寝転がりながらページをめくる。古今東西の伝説上の生き物について解説がある本で、表紙に書かれていた鳳凰が美しくて思わず買った一冊だった。
架空の生物が並ぶページの、ある一か所で目が留まる。
――比翼の鳥。1つの翼と1つの眼しか持たず、雄と雌で互いに支え合わなければ飛ぶことが出来ない
本に描かれた赤と青のその鳥から私は目を離せない。飛べない鳥は獲物を捕食できずに死を待つだけ、つまり雄と雌で巡り合わなければ死を待つだけの悲しい生き物だ。人間なのにどうにもこの世界をうまく一人で飛べない私にも、支えあう片割れが欲しいと、無性に思った。
—
ピンポーン。9月だというのにまだ残暑で暑い中、インターホンが鳴り響く。この家を知る人間はほとんどいないため、来訪者など宗教の勧誘や営業販売しかない。どうせ禄でもない用事だろう、と無視していると玄関から「あけろよ!」と子供の声が聞こえた。
ここで子供って誰だ?となるほど鈍感ではない。恐らくは勝己くんだろう。まだ外は暑い、また熱中症にでもなったら困るとドアを急いで開ける。
「どうしたの?」
「…」
ぶすっと少し不機嫌そうな顔でこちらを見上げる勝己くん。安定のだんまりであるが、いつまでも玄関を開けているのも暑いため「とりあえず中に入る?」と苦笑いで誘う。ややあって頷いた勝己くんは中に入り、玄関で靴を脱ぎ揃える。「偉いね」と頭をなでると、少し照れたように顔を逸らした。
ワンルームの私の部屋にソファは無い。ベッドと、テーブルと、ラグと、クッション。あとは最近買った本がいくつか平積みされている。冷蔵庫から冷やしたスポーツドリンクをお気に入りの江戸切子のグラスに注ぐ。キッチンからコースターも持っていき、グラスの下に敷いた。幼稚園児にグラスを持たせるのは不安だったが、独り暮らしの家に子供用の安価なプラスチックコップは常備されていなかった。
「ごめんね、水とスポーツドリンクしか飲まないからさ」
「いい」
勝己くんの横に腰を下ろすと、勝己君は膝の上にまた座る。しかし今度は向かい合わせではなく、同じ方向を向いている。行き場を無くした私の手を、少し迷って勝己くんのお腹に回す。先ほどまでの不機嫌は鳴りを潜め、少し柔らかくなった口元に安心する。とはいえ私物の少ない我が家ですることなどほぼない。幼稚園児が楽しめるものなどないため、勝己君を抱きしめて頭をなでる以外にすることはない。
すると、勝己君がある一点を見ていることを気付く。私が先ほど見ていた架空の生き物の図鑑だった。丁度、先ほどまで見ていた比翼の鳥の記述がある場所を開いたまま置いてあったため、勝己君を手で支えながら上体を起こし、そのまま手繰り寄せる。
「きれい」
「うん、綺麗な鳥だよね」
「なまえは?」
聞かれて言葉に詰まる。幼稚園児が理解するのは難しいかもしれないと思ったからだった。しかし聞かれて答えないわけにもいかず、少し困った顔で答える。
「比翼の鳥って言うの。実際にはいない鳥だよ」
「いない?」
「そう。昔の人が想像で描いた鳥なんだ。雄と雌で番合わなければ空が飛べない、悲しい鳥だよ」
勝己君がその言葉を理解できたかどうかは分からない。ただ比翼の鳥の絵をずっと見つめていて、時々こちらに視線を寄越す様子は理解しようと努力しているように見えた。勝己君は比翼の鳥の青い半身を指さして口を開く。
「このとり、名前みたい」
時が止まったように感じた。先ほどまでの考えを見抜かれたように感じ、心臓が大きく跳ねる。いつの間に名前をとか、何で呼び捨てなのとか、そんなことが一瞬にして頭を過ぎ去ったが、それよりもなぜそう感じたのか動揺しながら聞く。
「あは…どうして?」
「青くて、綺麗だから」
勝己君の赤い瞳がこちらを刺すように見上げる。一瞬息が止まったが、見た目に対する印象のみで特に深い意味があるはずもなく、言葉のあとに安心したかのように鼓動が動き出す。
「そっか。じゃあこっちは勝己君だね。赤くてかっこいいから」
「…うん…」
「あ、でも古代中国には他にも朱雀っていう赤い鳥がいてね」
他のページを見せようと少し本を立てかけたところで「いやだ!」と強い意志で手が止められた。
「この鳥が、いい…」
「…そっか」
比翼の鳥は頭が二つあるため、正統派の鳥ではなく幼稚園児には抵抗があるかと思った。だからこそ比翼の鳥よりも知名度のある朱雀を勧めたのだが、やけに比翼の鳥が気に入ってしまったらしい。幼稚園児に変なもの教えてしまったか、と少し反省するももう後の祭りだ。
そのあと勝己君の幼稚園での話を聞いていると、気付いたころには時計が4時を指していた。そろそろ帰さないと、と思い「かつきくん、」と切り出すとムスッとした顔になり膝から立ち上がる。追随して立ち上がろうとするが、勝己くんは同じ目線になった私の首に顔をうずめた。お腹と違いダイレクトに髪やらが首筋に擦れ、くすぐったい。
「くすぐったいよ、抱っこしてあげるから帰ろう?」
「…」
もはや無視は勝己くんのデフォルトだ。だんだんと慣れてきた私は構わずに勝己君を抱っこし、愛用のショルダーバックを斜め掛けして外へ出た。
—
「名前ちゃんのところじゃないかと思ってたよ」
「すみません、」
「名前ちゃんが謝ることじゃないよ、勝己が勝手にそっちに行っちまっただけなんだから。送ってくれてありがとうね」
腕に抱いたままだった勝己くんを下ろす。数十分子供を抱き続けた腕は少し痺れていた。もっと鍛えなきゃな、なんて考えたが、勝己くんは相変わらず服を握りしめたまま手を離す様子はなかった。
「こら、名前ちゃん困ってるでしょ?」
「また会えないのは、いやだ」
「ごめんね勝己くん。今度絶対に会いに来るから、今は手を離してほしいな」
「…明日」
「明日か、ずいぶん早いなあ。明日は学校があって遅いから、来週の土曜日なら昼から会えるよ」
「じゃあ、その日でいい…」
「悪いね、名前ちゃん。勝己のわがまま聞いてもらっちゃって」
「いえ、こんな小さな子が一人でうちに来る方が問題ですから…。勝己くん、次は私がこっちにくるから、もう一人でうちに来たら駄目だよ」
「うん…」
名残惜しそうな様子で服を離す勝己くん。光己さんは「また来てね」とほほ笑んでくれた。私の背中を見つめる勝己くんの赤い瞳が、まるで本当に私を飛べるように寄り添う片割れように感じて、相手が小さな子供にもかかわらず胸が熱くなった。
「またね」
比翼の鳥