五条は朝から昨日から出張に行っている。魂の剥奪・授与という強力な術式があるが、あくまで私は呪具に過ぎず、自分で術式を使用することはできない。この能力を持て余さないためには誰かに使用してもらうほかないが、最強たる五条は呪具など必要としていなかった。
———プルルル
どんよりとした曇り空、昼のまどろみの中、遠くで電話が鳴る音が聞こえた。特に出ろとは言われていないので居留守を決め込んだが、留守電に切り替わった途端ここにはいない五条の声が響いた。
「———もしもし、名前いる?伊地知が迎えに来るから、その車に乗って悠二たちの所に向かって」
私は必死に呪霊を祓いたいわけではない。泣いたり、笑ったり、恐怖したりといった感情はあるが、私から呪霊は発生せず人の営みに加わることはできない。人間が作り出した呪霊を、人間が祓うための「道具」に過ぎないのに、命を掛けてまで呪霊を祓う必要はない。
だというのに、切羽詰まった五条の声を聞いてからどうにも落ち着かない。声色から推測するに、恐らくは虎杖たちに何か危害が及ぶような緊急事態があって、五条は遠くて到着まで時間が掛かるから私に行かせようということなのだろう。ぐるぐると、頭の中が混乱して少し気持ちが悪い。見つからない本を探して空気の薄い図書館を歩き回っているような気分だった。
暫くしてチャイムが響く。どうやら伊地知とやらが着いたようで、インターホン越しに見る額には薄い汗が滲んでいた。インターホンには応答せず、人型を取った後直接エントランスに向かった。
—
伊地知と車で向かってすぐ、伏黒が近づいて野薔薇を後部座席へと乗せた。野薔薇は怪我をしているが、致命傷ではないため手当てを受ければ何とか助かるだろう。助手席に乗っていた私は降りて伏黒に視線を向ける。
宿儺の気配を強く感じる。虎杖は特級呪霊と遭遇し、宿儺に体の主導権を渡したのか。いかに力を失った宿儺と言えど特級呪霊に負けるはずもなく、この時点で虎杖の勝利は確定している。
「伏黒、大鎌は使えるの?」
「いや…使ったことありません」
「そっか」
呪具である私だけいても、呪具の使い手がいない。五条は何がしたかったのだろうか。あの綺麗な空色の双眸のように目隠しに覆われているわけでもないのに、私をここに遣わせた真意は未だ読めない。どんよりした色の雲から水滴がこぼれ、私の灰色の髪は水を含んで重くなっていく。
「残念だが、やつなら戻らんぞ」
「突然背後に立つなよ、宿儺。虎杖はまだ主導権を宿儺から取り返せていないみたいだね」
「名前も来ていたのか。これは何の縛りもなくあいつが俺を利用したツケだ、しかしまあ戻るのも時間の問題だろう」
そういうと、宿儺は不気味に笑いながら虎杖の胸に鋭い爪を突き立た。ぶちぶちと小気味良い音を立てながら血管が破れ、赤く脈動する心臓を引きずり出す。穴が開いた胸からは止めどなく血が溢れ、宿儺は右手に心臓を乗せながら愉快に笑った。
「俺はこれ無しでも生きていられるがな、小僧はそうもいかん。俺と替わることは死を意味する」
宿儺は更に指を取り込むと、満足げに伏黒に笑いかけ殺すと言い放った。宿儺にかかれば今の伏黒を殺すことなど赤子の手をひねるようなものだ。私は震える伏黒の手に手を重ねた。
「宿儺と戦うんだ」
「虎杖が戻る前に心臓を治癒させます」
「あなたでは相手にならない。私を使いなよ」
「つれないな、名前。俺が使ってやるぞ、昔のように]
「悪いね。今の所有者は宿儺じゃないから」
私は大鎌に変化させる。伏黒は式神を呼ぶ際に手でサインが必要だ。私のような手が塞がる呪具とは相性が悪い。それでも虎杖の復活が見込めない今、伏黒まで宿儺に殺されてしまったら、私はこの鉛色の空より憂鬱な気持ちで明日を迎えるのだろう。
鵺を召喚した伏黒はアーティファクト・サイスを手に取り宿儺へと向かっていった。やはり大鎌の使い方は堂に入ったそれとは程遠かったが、遠心力を使い、より素早く振れるように力を加えて誘導する。切っ先が宿儺に触れようかというところで、柄を宿儺につかまれて距離を離す。伏黒は素早く大蛇を召喚したが、すぐに破壊されてしまい宿儺に体を大きく投げ出された。
「目を開けて伏黒、虎杖を取り戻すんでしょ」
「くっそ…」
満身創痍の伏黒は壊れかけの鵺を解除し、最後の力を振り絞るように遠心力を掛けて刃を振るう。切っ先はやはり宿儺には届かず、伏黒はそのまま倒れこんだ。宿儺は用事はないとばかりにゆっくりと歩み寄り、片手を上げた。
「最近の若者は根性がないよ、まったく」
呆れたような、この場に似合わない朗らかな声をわざと発する。伏黒の身体に沿うように倒れていた大鎌は浮遊し、蜃気楼を発生させながら人型を取った。
「名前、お前を壊すのは本意ではない」
「私だって1000年来の友人と戦うのは本意ではないよ、そして人型で宿儺に勝てると思っているほど自惚れてもいない」
手を鎌に変化させる。本来の形態でないこの状態では呪具に刻まれた術式は使えない。しかし私を使う使用者がいなければ大鎌はただの飾り同然。それよりは伏黒を守るため、少しでも生存率を上げるために盾になった方が良いと判断した。
「でも、力を失っている今の宿儺なら、時間稼ぎくらいにはなるかな」
「ほう、面白い」
言葉を言いきらないうちに左足が吹き飛ばされる。右足に呪力を溜めて跳躍し、回転しながら宿儺に刃を向ける。寸でのところで体を翻し、宿儺は距離を離そうとしたが、左足の欠けた状態で距離を離されるのはまずいと考え、宿儺の足を掴み引き寄せる。鎌状態の手で宿儺の首元に差し掛かった時、背後で揺れる気配がした。伏黒は宿儺を据えて、呪力を練り上げている。それを見た宿儺は心底楽し気な笑みを浮かべた。
「いい、いいぞ。お前が命を燃やすのはこれからだったわけだ。なるほど、そうか、それなら魅せてみろ!伏黒恵!」
「布瑠部由良由良…」
伏黒が術式を今にも発動しようかという時、宿儺の気配が変わった。それに気づいた伏黒は術式を解いて『虎杖』に語り掛ける。
「言っておくが俺は、お前を助けた理由に論理的な思考を持ち合わせていない。危険だとしてもお前のような善人が死ぬのを見たくなかった。それなりに迷いはしたが、結局はわがままな感情論。でも、それでいいんだ。俺はヒーローじゃない、呪術師なんだ。だからお前を助けたことを、一度だって後悔したことはない」
宿儺の刻印が消えた虎杖は笑顔で伏黒の語りを聞く。口からすっかり酸素が失われた黒い血を流しながら、「長生きしろよ」と遺言のような言葉を残して倒れた。虎杖の身体から流れ続けている血は水彩絵の具のようにアスファルトに滲んで溶けていく。伏黒は涙でぬれた顔を雨で隠すように泣いていた。
足を踏み出そうとして、片足がないことに気付く。虎杖から流れ続ける血とは対照的に、血の一滴すら流れていない私の足は酷く滑稽だった。
------------------------------ 記録 ------------------------------ 2018年7月 西東京市 英集少年院・運動場上空 特級仮想怨霊(名称不明) その呪胎を非術死数名の目視で確認 緊急事態のため高専1年生3名が派遣され、内1名死亡
青いリンゴ
(透明な世界で僕だけが灰色)
主人公の術式は順転で魂の剥奪、反転で魂の授与ですが、虎杖の中には宿儺がいるため、虎杖だけ引き剥がしたら虎杖の身体は永遠に宿儺のものになってしまいます(宿儺の魂には触れられないし)。なので術式の使用はできませんでした。
